NHK大河ドラマいだてん主人公金栗四三の恩師嘉納治五郎先生の銅像は、文京区に二か所あります。ひとつは、東京高等師範学校跡地の一部「占春園」。もうひとつは、柔道の道場「講道館」。
嘉納治五郎先生は、ドラマからは東京高等師範学校学長で金栗四三をオリンピックへ導いた人ということがわかりますが、その他にも「柔道の父」・「日本の体育の父」・「日本のオリンピックの父」とも言われています。あまりにも多才な方で、地元にも関わりのある人物として興味がわき調べてみました。
<エリートが柔道を生み出す>
嘉納治五郎氏は、1860年、摂津国の名家で生まれ、1870年には明治新政府が始まったばかりの東京に上京。
明治の文明開化が押し寄せる東京で、学問を学び官立東京開成学校(現東京大学)にも進学しているエリート。
勉学優秀。しかし、腕力の弱さのコンプレックスから柔術に興味をもったとのこと。
大学で学業に励みながらも柔術の研究、野球などの様々なスポーツにもチャレンジする日々。その中で、
「武術ほど、人の体力、知能、道徳を鍛えるものはない」と確信。
しかし、文明開化以来、古臭いものとなっていた柔術のままでは、人の心をとらえるこができないのではないかと「まったく新しい武術を始めよう!」と開いた道場が「講道館」
そして新しい武術が「柔道」。
そのため、嘉納治五郎氏は「柔道の創始者、柔道の父」と言われるのですね。
この講道館は現在文京区区役所(シビックセンター)に隣接してあり、そこに嘉納治五郎の銅像があります。
もう一か所は、先日ご紹介した東京高等師範学校跡地の一部の占春園にあります。
<教育者として>
嘉納は、大河ドラマいだてんの主人公金栗四三が在学した東京高等師範学校(現・筑波大学)と東京高等師範学校附属中学校(現・京高等師範学校附属中学校・高等学校)で、25年ほど校長を務めたとうことですが、その他に
学習院で教頭、急性第五高等中学校(現・熊本大学)校長、旧制灘中学校(現・灘中学校・高等学校)、日本女子大学にも関わりがあったとのことです。
東京高等師範学校では、学生全員が年に2回長距離走大会に参加が必須だったり、教育の中で体育の重要性を学生に伝え、その学生が各地域でそれを伝えて広まっていったという経緯があるようです。
柔道家として教育者として、心身を鍛えること体の健康に重きをおき、オリンピックを目指すトップアスリート育成だけでなく、教育の中での体育の重要性を伝えた人でもあったようです。嘉納先生から教えを受けた人たちが全国に散らばって、この理念を伝え、学校において体育教育がしっかり行われる基盤を作っていったということです。これが、嘉納先生が「日本の体育の父」と言われるゆえんですね。
<オリンピックと嘉納治五郎先生>
嘉納治五郎先生がどうのようにオリンピックと関わったのか時系列でご紹介します。
1909年アジア人初のIOC(国際オリンピック委員会)委員となる。(49歳)1912年、いだてんこと金栗四三も含む日本人が初めて参加したストックホルムオリンピックでは、団長として参加。
1923年関東大震災後、「スポーツを通して復興を進めよう。国民の復興への指揮を高めていこう。世界に対しても震災に負けていないという姿を示そうと、1924年パリオリンピックに選手を派遣した。 1932年IOC総会にて東京オリンピック招待状を朗読、演説。これにより1940年の東京オリンピック招致が決定。 1938年バンクーバから帰国途中に船内で肺炎により亡くなる。(77歳) |
バンクーバからの船内で交友を深めた当時外交官の平沢和重氏は、嘉納治五郎先生の最期を看取ることになるが、この平沢和重氏1964年の東京オリンピックを実現させてキーパーソン。
平沢は嘉納から毎日のように「東京オリンピックを成功させてもらいたい」と聞いたようです。
このようなことを考えると1964年の東京オリンピックにも嘉納治五郎先生の思いが込められており、1964年と同じく「復興オリンピック」を掲げた2020年の東京オリンピックにも嘉納治五郎先生の思いが込められているかのように感じます。
嘉納治五郎先生は、人生の後半を日本がオリンピックに関わっていく基礎を築くために奔走したように感じました。「日本のオリンピックの父」とも言われるゆえん、伝わったでしょうか?
NHK大河ドラマいだてんを通して注目されるようになった嘉納治五郎先生。
2020年東京オリンピック開催にあたっても忘れてはならない注目されべき人物だと感じました。